こんにちは。コアネット教育総合研究所の嘉村です。

連日暑い日が続きます
皆様、体調はいかがですか
 
体が丈夫なことだけが取り柄で生きてきた私ですが、
自宅でもあまりに室温が高く、
やろうと思っていたことに手がつかず…
やはり、気力・体力が基本であることを実感します
 
 
さて本日は、「10年前より給食の食べ残しが増えている…」
という調査を紹介する記事を読みながら考えたことです
 
今から10数年前、我が家の次女が小学生のころ、
野菜や魚を残す様子を見て、給食について話したことを
思い出しました

私-「給食は、全部食べてるんだろう」
娘-「食べたくないものは残してる」
私-「えーっ、なんでだ。給食は全部食べるのが当たり前だろう」

娘-「食べたくないものは、残していいって」
私-「先生がそう言うのか?」
娘-「そうだよ」

もちろん、給食が「食べたくないものは残していい」からといって、
家の食事でも「残していい」わけではありません

食べるように言いましたが、残すことに抵抗の無い娘は、
食べません

不本意ながら、好きなものしか食べないまま、大学生になりました
つまり10年以上前、既に「食べたくないものは残していた」わけですから、
この状況はいっそう重症化しているでしょう

なぜ、「食べたくないものは残していい」のか?
“食べたくないもの” と “食べられないもの” は違います

 

私は小学生の頃、給食はすぐに食べ終えて外に出て行く
子供でした

でも、今でも覚えています。給食にであった小1のはじめのころ、
どうしても苦手なものが食べられず、
その日は昼休みが始まっても外に行けず、給食と格闘し続けました

でも、そのつらい経験により、私は「嫌いなものを最初に食べ、
息もつかずに牛乳で流し込む」、という技を体得しました

おかげで今も、いくつか嫌いなものはありますが、
出していただいたものはすべて、食べられます

給食はすべて、栄養のことを考え、
子供の体の成長に必要な食材で作っていただいています。

 

「残していい」ものなど無く、
本当は食べたいけれど、体質的に食べられないものを除いては、
「全部食べるのが当たり前」です

以前、アフリカの貧困層の子供たちが、
給食を目当てに遠くの村からでも通ってくる、という話を聞きました

少し視野を拡げれば、現在でも貧困で満足な食事が得られない人たちがおり、
一方で先進国では大量の食品が捨てられている
それらの食材を集めて届ける活動も展開されている

探究活動で世界の課題を知り、例えばこの貧困への対策を考え、
発表する機会も、増えていくことでしょう

 

一方で、自分は生涯、「食べたくないものは残す」人のまま
“食べたくないものは残す” 親が、子供に「給食は全部食べなさい」
と言えるでしょうか

 

「世界に通用する人へ」
世界に通用する人が備えるべき力の源は、健全な心身です
その出発点は、「給食を全部食べる」ことからではないでしょうか

さぁ私も、帰りにスーパーに立ち寄り、野菜、魚、果物、いろいろ
買って帰ろうと思います